弔辞へのこだわり

仮面心理学

「Hさんからもらった手紙が出てきて涙が止まらなくなった…」と昨年急死した方の話をしていた同僚に対して「あぁ…私はそういう経験が無いな」とふと思いました。

仮面心理学的に感情を感じるスピードが緩やかであるとか、生々しい感情を忘れやすいといった特性も影響しているとは思いますが、私なりに気をつけていることがあります。それは、周りの人が亡くなった時に無理せずしっかり悲しむこと。そして、出来るだけ弔辞を読むこと。

実は今日も弔辞を読ませていただきました。この一年だけで、3回目でした。今までの人生で弔辞を読んだのが7回で、そのうち3回がこの一年の間に集中していたので、続くなー嫌だなーとは思うけれども、人生最期のラブレターを送りたい大切な相手がこんなにいることも有難いと思います。

弔辞を書く時に、故人との思い出が噴出して、収集がつかないくらい悲しくなることがあります。泣けて泣けて筆が進まないことも多いです。だから、悲しく寂しい気持ちに徹底的に向き合う絶好の機会になります。それを発表する機会がお葬式です。お葬式の日時は決まっていて、締切があるからなかなかハードな作業です。やっとの思いで書き上げて、涙と鼻水でグチャグチャになりながら読みます。まぁ弔辞を通じて本当によく泣きます。ついでに周りの人も泣いてくれます。私の個人的な思い出話を語るだけなのに、弔問客一人一人の思い出が蘇るようで、一緒に泣けてくるのだそうです。でも私の変な習性で、弔辞の中にもどうしても笑える要素を盛り込むので、笑いながら泣くという不思議な空気になります。

そうやってお葬式で徹底的に溢れ出てくる気持ちに浸るので、清々しい気持ちで死を受け入れられるようになるのかもしれません。

だから私は亡くなった人を思い出す時、すでに悲しい気持ちは昇華していることが多くて、涙が止まらない…ということがほとんど無いのです。もちろん私と同じように、弔辞を読んだところで、やっぱり悲しいという人はいると思うので、あくまで私の場合ですが…

以前も弔辞についてのこだわりを投稿したので引用します。

最近、とてもお世話になった大好きな方が亡くなったので、弔辞を読ませていただきました。お葬式で「故人への手紙」を読む、あれです。

「なんで麻里が弔辞を読んだの?頼まれたの?」と色々な方に聞かれたので、答えになるかはわかりませんが「私が弔辞を読む理由」について考えてみました。

私が初めて弔辞らしきものを書いたのは、中学生の時です。祖母のお葬式で「孫からの手紙を読み上げろ」と言われて渋々書いたのですが、すごく難しかった…。祖母が亡くなったショックで落ち込んでいる時に、まともな文章を書けなかった。しかも読みながら涙が出てきて「もー最低…」と落ち込んだ苦い思い出です。

ただその時、祖母のお友達の弔辞が素晴らしかったことも強烈な思い出です。
「え!おばあちゃんってそんなに賢くて人気者だったの?」と、私が知らない祖母の一面を垣間見たような感動がありました。そして「おばあちゃんが亡くなって今日までの短期間で、これだけの文章を書いたなんて、すごいな!」とお友達を尊敬しました。

その10年後、大学生のとき、知り合いが亡くなった時に弔辞を読みました。もともと読むつもりなかったのですが、故人にお手紙を書いていたら、母に「それ、お葬式で読めば?」と言われて「いやいや、ご遺族に頼まれてないし…」「大丈夫!弔辞って頼まれなくても、持ち込んで良いのよ!」と励まされて(?)読みました。

「あの子、誰?」という視線が刺さりながら、感極まって涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、読み終わったらそのまま持って帰ってしまうなど(その場で封筒に入れて置いておくのがお作法)、なんか恥ずかしい思い出です。でも意外にもその弔辞をご遺族が喜んでくださって「今でも懐かしく読み返すのよ」と言われて驚きました。

その後も何回か、急に弔辞を読みたくなったら書いて、「読んでもいいですか?」と持ち込んでいたのですが、今回も急に書きたくなりました。

祖母のお友達の弔辞のように、ほかの参列者に故人の魅力を紹介できたら良いなと思ったり、私のエピソードを聞いて参列者やご遺族が故人との思い出を思い出すキッカケになったら良いなと期待したりして、心を込めて書きました。

涙と鼻水まみれで読み上げたら、ご遺族に「ありがとう」と言われて嬉しかったです。

そして孫からの手紙を聞いていたら更に泣けました。なんか中学生の頃の自分を思い出してしまいました。いや、私のと比べ物にならないくらいステキなお手紙だったのですが。

私は祖母のお友達の立派な弔辞に感動したけれど、私の不器用な支離滅裂な孫の手紙に心動かされた人もいたのかもなー…なんて思ってしまいました。

亡くなった後に手紙を書くと、故人のイヤなところを全然思い出しません。良いところや楽しい思い出ばかりが浮かんで(イヤな思い出すら懐かしくて)、すごく心が浄化されます。だから、読む読まないは別にして、お葬式までに故人に手紙を書くのは、癒される行為だと思います。

以上「私が弔辞を読む理由」について考えてみました。機会があればぜひ、弔辞を書いてみてください。(勇気があれば、読んでみてください。)

2018年6月7日のFacebookより

そして冒頭のHさんが亡くなった時も弔辞を書きました。

昨日、久しぶりに弔辞を読みました。

訃報を聞いてからお葬式までの間に、悲しみに浸りながらも文章を生み出すのは、何度やっても物凄く難しい。一昨日は頭を抱えてほとんど眠れなかったので、昨日は泥のように眠りました。

母に「まりはよく弔辞読んでるね。もう回数では私を超えていない?」と言われて、数えてみたら5回目でした。

昨日も「私が死んだら弔辞を読んでね」と声をかけていただいたけれど、その約束はできかねます。私が先に死ぬかもしれないから。それに、弔辞は読む相手は亡くなっているから、自分への弔辞は自分では聞けないのよね…

そんなわけで、生きているうちに気持ちは伝えておかなきゃと思います。

みんな、愛してるよ!←いきなりチャラい(笑)

2021年4月3日のFacebookより

今日のお葬式も最初は行く予定にしていなかったけど「時間とれそう。行こうかな」と言ったら、母に「弔辞読む?弔辞が無いお葬式は物足りないわよ。読んだ方が良いわよ!」と励まされて書きました。

ちなみに母は弔電のプロ?で、毎回型にはまらない文章を繰り出すべく頭を捻っています。毎回毎回違う文章を書くからけっこう大変らしいですが、よく頑張るなーと思って眺めています。

ちなみに弔辞をよく書くと言うと「御作法とか難しくない?」と言われますが、言ってはいけないワードみたいなのもあるにはあるけれど、あまり気にしていません。

縦書きの巻物みたいに書くのかとも聞かれましたが、いつもそんな余裕がなくて、パソコンでバーっと打ち出したのをプリントアウトして白い封筒に入れるだけです。余力があったらそういう御作法も守った方が良いでしょうが、まずは書いて読むことを優先します。

あとは喪服がね、今日は風が強くて寒かったから、上着欲しいなと思いました…。喪服が七分袖でレース素材だったから、寒すぎてカーディガン羽織ったまま読みましたよ。なんかこういう時にも性格が出ちゃいますね…

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