研修医の頃に参加した緩和ケアの勉強会で「自分はがんで死にたいと思う人?」というアンケートで半分くらいの医療従事者が挙手しました。私はちょっとビックリしたのですが、ある程度余命が予測がついて心の準備ができると思う方が多く、がんで死にたいと思う医療従事者は少なく無いそうです。
そんなことを古屋恭子サマンサさんとお話しながら思い出していました。
12月の始めに古屋恭子サマンサさんのセッションを予約していたけれど、最近の投稿を見ていたらお母様の死期が近いことは伝わってきたので「延期でも良いですよ」と連絡したものの、予定通り、今日も大笑いさせてもらって終わりました。
昼休みだったから白衣来たままで控え室でキャピキャピ話していたら「女医コスプレいいじゃん!」みたいな話になりましたが、これ仕事着ですから(笑)
息を引き取る瞬間って確かに仕事以外ではなかなか立ち会えません。言われてみると面白い視点でした。
2020年12月18日のFacebook より


サマンサさんのお母様はがんの宣告を受けてから亡くなるまでに事細かく準備して、周りにも色々準備させていたので、お母様を見送ったサマンサさんがなんだか清々しくて良かったです。こういう感じで死を迎えるのは理想的とも言えるのではないでしょうか。
そしてサマンサさんが今日Facebookでも私について書いてくださっていたので「キャ♡」と引用。
「離婚から2ヶ月後には
今の夫と出会って、
その一年半後には再婚して
出産していますが、
サマンサさんに出会った頃には
想像もしていなかった未来でした」
この笑顔からはそんな壮絶な
過去があるとは思えないような
佐賀の美人女医吉原 麻里ちゃん
↓ ↓ ↓
わたしが乳ぽんサバイバーとして
応援しているこちらの
クラウドファンディングに
協力してくれて30分の無料
セッションを受けてくれたわ

と言っても、今や特に
悩み事がない麻里ちゃんと
楽しく話しただけだけどw
病院の休み時間に受けてくれた
麻里ちゃんの白衣姿に
興奮しちゃった(爆
わたしね、正直言って
「医師」の世間知らずなところや
プライドの高さがどうにも
受け入れられなかったのが
彼女と出会って「医師」に
対しての見方が変わったのよ
麻里ちゃん、わたしの「看取り」
頼んだわ
2020年10月19日のFacebookより

お母様を見送った直後にこんなに大爆笑していたら不謹慎だと思う方もいるかもしれませんが、それだけ「やりきった感」に溢れていて素敵でした。その後のFacebookでのライブ配信では、大好きな濱名さおりさんの歌を聴いて感極まって涙する場面もあったけれど、これだけ明るく死を迎えられたのは、それだけ準備して死と向き合ってきたからこそだなと感じました。

そして私は祖父が亡くなった時のことを思い出しました。なんか亡くなって病院から移動するときに、病院にいた職員さんが大勢お見送りに来てくれたこととか思い出しました。ちょうどその年は東日本大震災が起きた年でもあり「ご遺体が流されて行方不明だとか、まとめて火葬だとかいう話を多く聞くけれど、こんなにたくさんの方に見守ってもらえて…祖父は幸せ者だな」と思ったのです。
人類の死亡率は100%で、死は誰にでも平等に訪れます。こんな仕事していると、死生観について自然と考えるようになります。死は、時期も環境も選ぶことができません。いい人や努力した人が、思い通りの死に方をできるとは限らないのです。
2011年4月6日22時10分に祖父が亡くなりました。遠方に在住の親戚みんなに見守られながら…。なかなか良い死にっぷりでした。
私の医師観は父と祖父の影響を強く受けています。なにしろ、生まれて初めて見た医師が2人ですから。でも2人は私の中では対極のイメージでした。父は病院に張り付いて、外来と入院に忙殺されていましたが、祖父は全然病院にも家にもいなくて、正直「何やっているのだろう」と思っていました。物心ついた頃に「祖父は県医師会会長で、医師会の仕事のために全国や世界を飛び回っているらしい。」ということは理解できるようになったけど、何しているか全然知らなかったし、たまにテレビで見ても「目立ちたがり屋だな」くらいにしか思っていませんでした。
豪快でオシャレでカッコイイ祖父でした。いきなり「ちょっと着替えたほうがいいね」とデパートに連れて行ってくれて頭から足元までコーディネイトしてくれたり、「旨いものを食べないと」と値札のない寿司屋に連れて行ってくれたり、昔の武勇伝を聞かせてくれたり…。とても優しかったけれど厳しい面もあり、私の記憶の中では怒っている顔が多いです。
祖父に3年前に肝臓癌が見付かり、私が5年生の時に大学病院に入院しました。まだ実習が始まったばかりでしたが、治療方針に口出ししては祖父や父に怒られ、それでも食い付く…という毎日でした。あの頃から患者:祖父、主治医:父、担当医:私、という奇妙な三世代チーム医療が始まりました。
色々と頑張ったけど治療は難航し、たくさんの問題が同時発生するようになり、「食事制限はやめよう。大学病院での高度な治療もやめよう。自分(祖父)が作った病院で、愛する家族と職員に囲まれて、好きなように生きていこう。」との結論に達しました。賑やかなことが大好きだった祖父は、毎日知り合いが訪れてくれる生活を楽しんでくれていたと思います。
一昨年の夏祭りでは車椅子で盆踊りに参加して特別賞をもらってテレビに出て嬉しそうだったし、去年の春はさくらマラソンの応援に来てくれたり、盛大なパーティーを開いてお世話になった人と楽しいひと時を過ごしたり…できる範囲で楽しく過ごしていました。でも昨年の夏から急激に病態は悪化し、病院から動けなくなり、「年内持たないかも…」と嫌な予感がしていました。「年を越せたら奇跡だね。もし正月迎えることができたら、家に連れて帰ろうよ。」と今年の正月は雪ニモ負ケズに家に連れて帰りました。大好きなおせちにはほとんど手をつけなかったけど、お屠蘇や日本酒は嬉しそうに飲んでいました。
2月まではご飯も食べていましたが、3月になって食事が食べられなくなり、意識障害やけいれんを認めるようになりました。婚約報告をしたときも反応が鈍かったけど「10月に結婚式だよ。バリアフリーな会場にするから、とびっきりオシャレして車椅子で出席してね!!」と話しました。
4月6日の20時半頃、母から仕事中に電話があり「間に合わなくなっちゃうわよ。急いで帰ってきなさい!!」と切羽詰った声でした。病院に駆けつけると親戚だらけで病室がごった返していました。祖父にかけよると呼吸状態が不安定で、不整脈が頻発しており、尿が全然出ていませんでした。父に「あと1時間持つかなぁ…」と言われ、「止まっても、心臓マッサージしなくていいよね。」と確認し「もちろん。」と穏やかに言われました。親戚が全員集合してほどなく、モニターがVFになりパタリと息絶えました。父より死が宣告されました。その瞬間、悲しいというよりホッとしました。「苦しかったよね。よく頑張ったよね。」と心の中で話しかけました。みんなに見守られて、見事な死に方だと感動しました。
3日間に及ぶ葬儀は、2000人の参列者に見守られて行われました。きっと仕事関係とか義理で来てくれた人も多かったと思うけれど、たくさんの人が涙を流してくれて、心のこもった弔辞を読んでくれて嬉しくなりました。病院の職員さんが全面的に協力してくれて、滞りなく終わることができました。有難いことです。
今は震災で火葬もできない人がたくさんいるのに、祖父は自分でも満足する死に方ができたのではないかと思います。
良かったね、おじいちゃん。安らかにお眠りくださいね。お浄土でも、飲みすぎ注意よ。
2011年04月11日のmixiより
そして今はまたコロナ禍で、もしかしたら理想的な最期を迎えることは難しい状況の方もいるかもしれません。私自身はどんな最期なんでしょう。まだイメージが湧きませんが、いつ死んでも悔いが残らないように毎日を精一杯楽しもうと思います。
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