手術から1ヶ月ほどたった2017年1月28日土曜日の朝、トイレで出血に気付いた。寝ぼけていたので「あれ?血?妊娠中なのになんで生理なの?」なんて頓珍漢なことを考えながら病院に電話した。「今すぐ受診しなさい」と言われて、夫に子どもを託して受診した。救急外来に車椅子を持った看護師さんが立っていて「車椅子に乗って。ご主人は?」と言われて「1人で来ました」と言うとギョッとされた。私も車椅子に座らされてだんだん血の気が引いてきた。
診察してくださったのは面識のある産婦人科医だった。
「あら、まりちゃん。PROM(premature rupture of the membrane) plusよ!」
「え?」
「破水している」
妊娠24週0日だった。頭がクラクラした。
「ちょっと待って。いま生まれて救命できるんですか?肺のサーファクタントができるのだって28週ですよね?」
「今すぐ産まれても不思議じゃない。このまま入院です。」
それからの日々は、トイレ(大)以外はベッドから離れることを禁じられた。
朝起きても洗顔も手洗いもできない。歯磨きもガーグルベース(小さい洗面器のようなもの)を使って、うがいの水も看護師さんに頼んで。入浴ももちろん禁止で、陰部洗浄を同世代の看護師さんにやっていただき、内診もベッド上で。できることをやってはいけないのは辛かった。時間が経つのがとてつもなくゆっくりに感じた。
「手術後は安静にしなさいって言われていたのに、全然できていなかったな…」
走馬灯のように、手術から今日までの日を振り返った。退院してすぐに娘達がインフルエンザと嘔吐下痢症になり、家事に育児にバタバタ走り回っていた。この入院での生活を安静と呼ぶのなら、私の生活は安静とは程遠かった。今更反省したって仕方ないのに…
産婦人科医が「破水しているが、できるだけお腹の中に留まってもらうよう、色々な処置を行います」と説明してくれた。
子宮の入り口にフィブリンのりを詰めて堰き止める方法(あっという間に流れてしまった…)
羊水還流療法(子宮内に生理食塩水を注入して子宮内の羊水を入れ替える。常時羊水がダラダラ流れて不快だったが「画期的な方法があるのね!」と感動した。)
ほかにも危険が迫ったら緊急帝王切開になるなどを説明され「何か心配なことはある?」と聞かれた。
「あの…昨年5月に次女が生まれました。もし今年度中に産まれたら同級生になっちゃうなぁって…それが心配です。」随分呑気なことを聞いているように思えるかもしれないが、いったいこの入院生活はいつまで続くのかピンとこなくて、そんなことを聞いたのだ。
「同級生になるかもしれないね。2ヶ月は保たないと思う。」
その説明から5日後の2月2日、子宮内感染を確認した直後に、腹部に激痛が走った。陣痛だ!!!
「帝王切開は間に合わないだろ!早く分娩台を整えろ!」
「小児科には連絡したのか?」
色んな声が聞こえた。眼鏡をかけていなかったのでボンヤリとしか見えなかったが、分娩室内には産婦人科医も小児科医も助産師もいて、10人以上はいるようだ。
「うわぁ、賑やかだな。皆さんにお待ちいただいて、まだまだ時間がかかったら申し訳ないな…」なんて痛みの合間に考えていた。
「赤ちゃんは非常に小さいです。いきんだら飛び出してしまう危険があります。いきまないでください。」と言われた。「飛び出すって…ホラーだな。力を入れたらいけないのか。長女と次女の時にソフロロジー法で真面目にリラックス法を習得しておいて本当に良かった…」なんて考えているうちに、産まれていた。
たまに「赤ちゃん小さかったのなら、痛み無く産めたの?」と聞かれるが、大きさに関係なく、分娩は激痛を伴う。児を娩出するエネルギーは全身を容赦なく叩きのめす。
三女が誕生したとき「ふぇ…」と弱々しく泣いて、すぐに吸引されていた。
「え、声が出るんだ!」と嬉しい驚きだった。
体重706g、身長32.4cmの小さな赤ちゃん。丸まっていたら片手の掌に乗りそうだ。
「おめでとうございます。すぐにNICUで処置をします。」と小児科の先生に見せていただき「良かった、生きてる…」と確認した後は、ほとんど記憶が無い。後陣痛が痛すぎて、のたうち回っていたのだ。
そんな中、静かに四女も出産していた。
体重62g、身長16.5cmで、人形のように薄かった。
「おつかれさま。会いたかったよ。」
夫は怖がって見たくないと言った。でも私が退院するまでの一週間、三女がNICUに入って会えない寂しさを埋めてくれたのは四女だった。時々病室に連れてきては二人きりの時間を過ごした。火葬場で骨も何も残らなかったけれど、今でも私の心の中で生きている。
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