お盆と弔辞と恋文

ろんだん佐賀
イケメン過ぎる遺影にどよめきが起こっていた後輩

先日の娘との会話…


最近は大好きなアニメの影響もあるのか恋愛に興味津々の娘。「愛の告白のラブレターはどうやって書くの?」と聞かれて「えーっ?ママはそんなにもらったり書いたりしていないからよくわからないな…」と言いながら「あ、でも、弔辞もラブレターみたいなものよね!」と思い直して書いたのが今回の投稿です。


話が色んな方向に行ってしまいましたが、このカオス具合に見事なタイトルを新聞社の編集者の方がつけてくださいました。『部屋とワイシャツと私』みたいで、なんだかレトロな雰囲気が好き♡

2022年8月14日 佐賀新聞

お盆と弔辞と恋文 ー好きなところを素直に伝えよう

 「ラブレターってどうやって書くの?」と娘に聞かれた。今のご時世、気持ちを伝える手段はいくらでもあり、手紙とは縁遠くなりがちだ。しかし私は時々、一方通行の手紙を書くことがある。亡くなった人へ送る弔辞は、返事がこないラブレターのようなものだ。
 大学生の頃、結婚式で聞いた祝辞が素晴らしく、その主に声をかけたことがある。その方は「昔、仕事の付き合いで行った葬式で聞いた弔辞が素晴らしくてね。その弔辞を聞いて、苦手だった故人の人間的な魅力に触れて胸がいっぱいになった。それ以来、葬式の弔辞と結婚式の祝辞は、より一層心を込めて書いている」と話してくれて、私の中で弔辞のイメージが変わった。
 冠婚葬祭の中でも葬式は特殊だ。基本的には招待状無しに誰でも参加できる。結婚式の祝辞はご指名いただかなければできないが、葬式の弔辞は自由に読むことができる。
 私が初めて弔辞を読んだのは大学生の時だった。行きつけのバーのマスターが亡くなって悲しいとSNSに投稿したのを見た母が「それを弔辞にしたら?」と勧めてくれた。と言っても、弔辞の作法を知らなかったので、故人との思い出を書き連ねただけのものだった。しかし、それを聞いた遺族が意外なほど喜んでくれた。身近な人にとっては当たり前すぎて見逃してしまう故人の魅力を弔辞で再確認できたのかもしれない。そして私の個人的な思い出話ばかりなのに、他の参列客もそれぞれの思い出と重ねて涙してくれた。
 弔辞は訃報を聞いてから葬式までのごく短い時間に、故人への自分の気持ちを整理して文章にまとめなければいけない。なかなか難しい作業で、毎度苦戦する。
 生前どんなに折り合いが悪かった相手でも、亡くなった後に思い出すのは良いところばかり。恨みつらみが言えるのも、相手が生きていればこそ。「良い人から先に逝き、私のような俗人が生き延びるのよね…」と、やさぐれた気持ちになったりもする。弔辞を書きながら、いろいろな思い出がよみがえり、涙が出ることも少なくない。そうやって故人への思いが昇華していくのだ。
 最近では、安倍晋三元総理に宛てた麻生太郎さんの弔辞に感動した。「正直申し上げて、私の弔辞を安倍先生に話して頂くつもりでした。無念です」というくだりに思わず泣いた。私は数ある弔辞の中でも、後輩に宛てたものが一番つらかったから、それを思い出したのだ。
 そんなわけで、娘への恋文指南として「相手の好きなところを素直に書いたら良いのよ」と伝えると「それが分からないの!」と言われてしまった。…その通り、難しいのだ。でも、生きている相手に書く手紙はお返事がもらえる楽しみがある。
 会心の弔辞が書けても、返事が来ないのはやはり寂しいものだ。「生きているうちに素直に伝えておけばよかった…」という反省も芽生えてくる。生前から弔辞を書くような気持ちで接していれば、後悔は少なくなるのだろうか。逆に、誰かが私の死後に読んでくれるであろう弔辞を、自分では聞くことができないのも残念だ。
 今日はお盆、改めて大切な人に思いを馳せよう。そしてもしかなうなら、お互いが生きているうち、元気なうちに、相手の好きなところを素直に伝えておこう。

2022年8月14日 佐賀新聞

ちなみに冒頭出てくる結婚式の祝辞が上手だった方は、掲載してくださった佐賀新聞社の社長です。記事に名前を出してしまうとヤラセみたいと言うか、なんかいやらしいなと思って書かなかったのですが。先日お会いした時に「社長をネタに一本書かせていただきました。社長がお亡くなりの際は私が弔辞を読ませていただきます!!」と勝手に立候補したら「まぁ…順番通りならね!」笑っていましたが。(社長は私の親世代)


文中に出てくる「人生初の弔辞」は、最近バーに行ったらまだ弔辞をお店に置いてくださっていました。原稿自体はもう紛失してしまったのですが、SNSにupしていたものは残っていたので、一部ご紹介します。本番ではこれに少し手を加えて読みました。

私の大好きな絵本です。

犬のエルフィーと男の子は大の仲良し。一緒に大きくなりました。
でもエルフィーは犬だから、男の子よりもずっとはやく大きくなりました。
そしてだんだんと老いて、太っていきました。男の子は寝る前には必ず、「エルフィー、ずーっと、だいすきだよ」と言ってあげたのでした。男の子の家族もエルフィーのことを大好きでしたが、誰もそれを口に出しては言いませんでした。
ある朝、目を覚ますとエルフィーが死んでいました。
みんな悲しくてたまりませんでしたが、男の子は毎晩エルフィーに「ずーっと、だいすきだよ」と言ってあげていたので、いくらか気持ちが楽でした。男の子は、今後動物を飼うときは、きっと毎晩「ずーっと、ずっと、だいすきだよ」と言ってあげよう、と思うのでした。

「すきなら、すきと いってやればよかったのに だれも、いってやらなかった。いわなくっても、わかると おもっていたんだね。」
という下りが一番好き。

唐突な書き出しでごめんなさい。
実は今日、私の大切な人が亡くなりました。父の行きつけのバーのマスターです。

彼は病気に冒された当初から、死を覚悟していました。私も覚悟していました。遅かれ早かれ、この日が来ることを。

「もう次に会うことは無いかもしれない」という思いで、会う時には失礼を承知で写真を撮らせてもらっていました。レンズ越しに、ひどく痩せていくのを感じました。それで私の表情が曇ったことに気付くと、私が笑うまでオヤジギャグを言い続けてくれる人でした。

「どうした、麻里ちゃん?イエーイ(遺影)!」なんて、笑っていいのかわからないものまで。

つい先日
「いや~ついに、なんとかロードを歩くことになってね」
「え?何々?シルクロード?」
「ヴァージンロード!娘が結婚するんだ!!」
と自慢してくれたばかりでした。

「10月末だからね、そこまで何とか頑張らないと!!」と張り切って、金曜日に無事に結婚式を終えたばかりでした。
何度も危ない時を乗り越えて、悲願を達成して、人生を終えられました。

涙より何より、拍手を贈りたい気分です。

最後に会った日なんて
「今日は本当に会えて良かった!!最近体調悪いって聞いてたから。」
と言ったら
「麻里ちゃんのために、千の風になって会いに来たんだよ」
と笑っていました。
「ありがとう♡マスター大好き~♡♡♡」
と言って別れました。

別れるたびに「これが最後かも」と思うと、ちゃんと自分の気持ちって伝えられる気がします。マスターの前では、私はいつも素直になれました。

会うたびに大好きって伝えていたから、後悔はないけど、やっぱり別れは寂しいし辛いです。

2007年10月25日没 享年55
いつもかっこ良かったマスター♡

この弔辞の中で出てくる絵本はこちら。子どもの時に母がよく読んでくれて「ずーっとずっとだいすきだよ」は口癖でした。私もその口癖がうつり、子ども達に言いまくってしまいます。


そしてもう一つ。後輩に宛てて書いた弔辞は、書きながら涙が止まらなくなってかなり苦戦しました。今回このブログに載せたくて写真を探していたら、めっちゃイケメン♡♡♡ 若くして亡くなるって本当に悲しいことなんだけれど、これだけ美しい時代の記憶のみが残るのもなんだか尊いと思います!!…なんて言ったら不謹慎ですかね?

長女が生まれたばかりの頃。仕事中におしかけた(笑)

あなたと初めて会ったのは、あなたが大学に入学した直後のY教授の保証人会の時で、私は3年生でした。解剖学のY教授を囲んで、学年の枠を越えて交流を深める会が定期的に開催されていました。たまたまあなたのご両親と、私の父と、Y教授が大学時代の同級生で、ご縁を感じていたのですが、実はその席でちょっとした事件があり面食らったことを覚えています。お兄様について話題を振られた時に、からかわれているように感じたのか、新入生のあなたが急に怒ってしまったのです。思ったことをストレートに表現する真っすぐな一面にちょっと不安を感じたのも事実です。

しかし、その次に会ったあなたが、とても柔らかい印象に変わっていたことに、私はとても驚きました。サッカー部に入部して、先輩方のご指導を受けたこともあるのでしょうが、入学当時の角が取れたと言うか、礼儀正しい好青年になっていました。大きな目をくるくると動かして、良く通る声で場を盛り上げて、出会った人達の心をひきつけずにはいられない存在でした。

私は卒業後に地元の佐賀に戻り、会う機会も無くなってしまいましたが、国家試験合格の報告をしてくれたり、Facebookなどを通じて近況を知らせてくれたりしていました。そんなある日、日記の中で「入院した」と書かれていて「お腹でも壊したの?」とメールしたところ「僕、舌癌なんです。」とサラリと言われた時には本当に驚きました。私の動揺を察したのか「リンパに転移しているんですよ、やばいっすよね(笑)」と、こちらに気を遣わせないような明るい報告に、再び面食らってしまいました。後に、もともと学生時代に発症していたこと、術後の再発であることなどを教えてもらいましたが、何を聞いても隠さずに、率直に答えてくれ、同時に相手に負担をかけないように細心の心配りをしてくれているように感じました。すごい人だなと思いました。

治療の過程では辛かったこともたくさんあったようです。「声が出ません」「体が痛くて、朝から起き上がれません」という悲痛な叫びもありました。でも努めて明るく話してくれました。「胃瘻になったので、食事が超時短できて便利ですよ。必要な栄養しかとらないのでライザップもビックリな無駄のない体ですよ」とか「味覚が無くなってきました。でも美味しく食べるフリはできるので、一緒にご飯を食べに行きましょう。」とか。変な言い方かもしれませんが、あなたの闘病記を聞くことで、私はとても元気をもらっていました。

また折に触れて、家族への想いもよく話してくれました。お母さんがいつも温かく見守ってくれること。尊敬するお兄様と働ける喜び。可愛い弟の自慢話。そしてお父様には特に思い入れが強かったのか、どんな言葉をかけて励ましてくれたかとか、延命措置についても話し合ったとか、たくさんのエピソードを教えてくれました。中でも、お父様が手術前にかけてくれた言葉がとっても印象深かったので、ここでご紹介したいと思います。

『癌になってもつらい人生じゃない。つらいのはお前だけじゃない。癌になってもお前はお前の人生を楽しむ権利があるし、それを支えてくれる周りのみんながいることを証明する義務がある。感謝しなさい。』

入退院を繰り返していましたが、退院しては寸暇を惜しんで働き、「救命救急 up to date」なる勉強会を立ち上げては後輩やコメディカルの指導を行い、驚くほど精力的に活躍していました。またオフの時はトライアスロンや登山に挑戦し「あなた本当に癌患者なの?」と呆れていたほどです。でもそれもお父様のあの励ましへの答えだったのかもしれませんね。貴方は最期まで全力で働き、全力で遊んで、全力で人生を謳歌していましたね。そして愛するみんなに感謝しつつ最期まで笑顔を届けてくれました。

昨年、私が開催に携わった、がん県民公開講座にも足を運んでくれました。熱心に講演を聞いてくれたことに感謝し「来年はアクティブすぎる癌サバイバーとして、講演してよ」と話したら、本人も満更ではなさそうだったのですが、今年に入って音信不通になってしまったことに、ずっと不安を感じていました。

長い闘病生活は、とても大変だったと思います。本当によく頑張り抜きましたね。

あなたが旅立ってしまったことはすごく悲しいけれど、痛みから解放されて、静かな眠りにつくことができたのは、やっとホッとできる時が来たということかもしれません。いつまでもあなたのことは忘れません。人として、医師として、患者としてあなたの生き方を心から尊敬しています。

今まで本当にありがとう。

2016年10月17日没 享年30

一緒に撮った写真はこれが最後。この時も痛々しい治療の痕を見せてくれて「すごいね!」と話していたのが懐かしい…

2015年6月13日 がん県民公開講座にて

「あの時抱っこしてくれた赤ちゃんに、ラブレターの書き方を聞かれたのよ。ビックリでしょう?」なんて、写真に向かって思わず話しかけてしまいました。時が経つのは本当にあっという間。いまこの時を大切に生きようと思います!!


このブログを書くにあたり、ご遺族に連絡したら久しぶりに故人の思い出話ができて懐かしかったです。弔辞も写真も掲載にご快諾いただきありがとうございました。

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